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ビジネスマンのためのクオリティ・リーディング 読書の質が仕事と人生を変える

三輪裕範

年間 40 冊から 50 冊程度の本を厳選した上で丹念に精読していくほうが、一般のビジネスマンにとってはよほど有益です。そして、それよりももっと重要なことは、少数ながらも厳選した本を読むという「習慣」を長期にわたって継続していくことです。

私が本書を通して訴えたいのは、 今はやりの速読術によって「質より量」を求める、読書量重視の「クオンティティ・リーディング(quantity reading)」ではなく、読書自体の「質」をより重視し、むしろ読書における非効率をよしとする「クオリティ・リーディング(quality reading)」という読書スタイルです。

第1章ではこうした「クオリティ・リーディング」の核となる考え方について述べます。続いて第2章では、忙しいビジネスマンが「クオリティ・リーディング」を行う時間を確保するための方法について、第3章では「クオリティ・リーディング」に適した本の選び方について、第4章では「クオリティ・リーディング」における本の読み方について、そして、第5章では「クオリティ・リーディング」を完結させるためのノート術について詳述します。

私たちがスーパーマンでないかぎり、読書の量も質も両方を十分に満足させることはできません。  

そうなると、読書の量か質か、そのどちらかを選択しなければなりません。もちろん、若い方の場合は、人生経験も知識も情報も相対的に少ないので、できるだけ多く読書することによって、知識や情報の獲得を心がけることが賢明なやり方でしょう。  

しかしながら、こうした読書量を重視した「クオンティティ・リーディング(quantity reading)」をいつまでも続けることは、決しておすすめできません。もちろん、前述のような知識、教養、娯楽を読書の目的とするのであれば、「多ければ多いほどよい」という読書量重視でもいいでしょう。   

しかし、もし単なる知識獲得や娯楽目的ではなく、読書から知的刺激を受けて、それらについて自ら考えたり、自ら考えをまとめていくという「創造的読書」を目的とするのであれば、「少なく読んで多く考える」という読書の「質」をより重視した「クオリティ・リーディング(quality reading)」を目指していく必要があるのです。

私自身、速読術の本を何冊も読みましたが、結局のところ、そうした速読術の本が読書であると言っているのは、一般に考えられているような読書ではなく、要旨やポイントをつかむエッセンス獲得読書にほかなりません。 

多少極端な言い方をすれば、速読術による「読書」というのは、最近、勉強法や読書法の本などで頻繁に見られるようになった、各章の最後の「まとめ」を読むようなものです。

たしかに、本のエッセンスだけを知りたいということであれば、「まとめ」だけを読んでも、それで事足りるかもしれません。しかし、私は多少考え方が古いのかもしれませんが、本あるいは読書とはそういうものではないと思っています。  本書についても、さまざまなところで引用文を書いたり、具体的な事例を書いたりしています。それらの引用文や具体的事例自体は、本文の内容を補強し、より説得力のある議論をすることが主目的ですので、本書のエッセンスだけを知りたい読者にとっては、何の意味もないかもしれません。しかし、そうした引用文や具体的事例こそ、著者が厳選に厳選を重ねた上で書き入れたものであることが多いのです。  

その意味でも、速読術によって、本のエッセンスだけを手っ取り早く知ろうとすることは、引用文や具体的事例のような本の最もおいしいところを食べずに捨ててしまうのと同じことになってしまいます。そういう観点から言っても、速読術というのは、一見、大変効率的な読書法であるように思えますが、その実は、非常に効率の悪い読書法なのです。

速読によって、手当たり次第に本を読んでいくような「クオンティティ・リーディング」では、長期的に大事になってくるあなたの論理的思考力や批判的思考力を養うことは決してできません。

実際、拙書『ビジネスマンのための 40 歳からの本を書く技術』(ディスカヴァー)でも書きましたように、「付加価値のある知見を生み出すためには、一定量のインプットによる蓄積が必須」であり、「勉強でも読書でも、ある段階における蓄積量が多ければ多いほど、その蓄積による内圧が高まり、質的に異なるより高次の段階へと大きくジャンプでき」ます。その意味でも、特に若いうちは、できるだけ読書量を増やして、知識・情報の十分な蓄積に努力することが重要です。   

しかしながら、それよりもはるかに重要なことは、読書量自体はそれほど多くなくても、一定量の読書を継続的に行っていくことです。そして、その過程において、熟読すべき本とそれ以外の本を見極める自分なりの選書眼を養うことです。  

くだらない本をどれほど多く読んでも、くだらない知識と情報が増えるだけです。それよりも、自分の論理的思考力を鍛え、批判的読書の対象になるような本を、年に1冊でも2冊でも自分で探し出して読むことができれば、そのほうがよほど意味があると言えるでしょう。

論理的思考によって自ら考え、充実した知的アウトプットを行うという「クオリティ・リーディング」で最も必要なことなのです。   

私が提唱する「クオリティ・リーディング」では、知的生産としてのアウトプットを重視していますが、そうしたアウトプットを充実した内容のものにするためには、当然、インプットが多ければ多いほどよいと考えます。

精読の 50 冊は、速読の500冊をはるかに凌駕するのです。  

しかし、ただ単に非効率な読書をよしとし、精読を中心とする「量より質」の読書を目指すだけでは、「クオリティ・リーディング」は完結しません。これだけでは、「クオリティ・リーディング」の半分を語ったことにしかならないのです。  では、「クオリティ・リーディング」を完結させるもう半分とは、いったい何なのでしょうか。 それは、本を読んだあとのフォローアップをしっかり行うことです。 いくらたくさん本を読んだとしても、それを読んだあと、そのままにしておくのであれば、本を読んだ効果は半減するどころか、悪く行けば、ほとんど無価値になってしまいます。

人間の忘れやすさの研究の中に、有名な「エビングハウスの忘却曲線」と呼ばれるものがあります。これは、 19 世紀のドイツの心理学者エビングハウスが行った人間の記憶は非常に頼りないものであることを示した実験で、物事を新しく記憶させても(彼は無意味なアルファベットの羅列を記憶させた)、 20 分後には 42%、1時間後には 56%、1日後には 74%も忘却することを明らかにしたものです。(もっとも、その後の人間の記憶は比較的安定しており、1週間後には 77%、1カ月後には 79%の忘却率にとどまっています。)

本田直之氏は『レバレッジ・リーディング』(東洋経済新報社)の中で、本を読んで面白いとか重要だと感じて線を引いたところを、読んだあとにパソコンに打ち込んでメモを作っていると述べています。そして、「レバレッジ・メモ」と呼ぶそのメモを、本田氏はいつも持ち歩いて、少しでもすき間時間ができると読み返して、読んだ本のお金と時間のもとを取り返すように努力されているとのことです。

梅棹忠夫氏も『知的生産の技術』(岩波新書)の中で、本を読むときには線を引き、すべて読んだあとに、再度その本を最初からめくって、線を引いたところを見返していると述べています。そして、「なぜ最初によんだときにそこに印をつけたのかを、あらためてかんがえてみる。なかには、単に内容の理解のために重要だとおもって、線をひいたところもあろうし、表現のうまさにつられて印をしたところもあろう。いろいろなケースをながめたうえで、これはほんとうにノートしておく値うちがあるとおもわれるところだけを、ノートにとる」と述べています。

読書は単に本を読むだけでは完結しません。それよりももっと重要なことは、本を読んだあとのフォローアップをきちんと行うことです。もちろん、読後にどんなフォローアップをしたらいいのということについては、各人のニーズやウォンツによっても違ってくるでしょう。  

しかし、そのフォローアップがいかなるものであれ、本を読みっ放しにせず、読後に何らかのフォローアップを行うことによって、読書は初めて完結するのです。

第1章のまとめ    

○読書は「量」よりも「質」を重視する。    

○「自分で考える」読書や「批判的読書」は、「多読・速読」ではなく「精読」を要求する。    

○たとえ量は少なくても、一定量の読書を継続して行うことのほうが重要。    

○本から「もとをとる」。重要と感じた箇所に線を引き、ノートに書き写す。それを空いた時間に繰り返し読む。    

○少しずつ高カロリーで歯応えのある本を読むようにする。(読書のメタボ化)    

○読書の「歩留まり」をできるだけ高く維持する。(読後のフォローアップを行う)

本章では「クオリティ・リーディング」を実際に行うための最も重要な資源である「時間」をいかに捻出し、確保するのかということについてお話ししたいと思います。

もし、毎朝 30 分でも、1時間でも、そのような「まとまった時間」を作り出すことができれば、それが皆さんの読書や勉強を支える知的生活の核となります。 日常生活の中で、こうした時間を継続して持てるかどうかが、皆さんのビジネスマンとしての人生の質を決めることになるでしょう。

私がおすすめしたいのが「年間600時間勉強法」 です。この「年間600時間勉強法」は、拙著『四○歳からの勉強法』(ちくま新書)の中で初めて私が提唱したもので、具体的には、 週日の毎朝1時間と、土日の2日間それぞれ3時間ずつ勉強することを基本とする次のような時間捻出法です。

それでは、どのようにして、積極的に自分の時間を作り出していけばよいのでしょうか。まずお勧めしたいのは、毎朝1時間と、そして土日の2日間に、最低3時間ずつ確保するというやり方です。これを確実に実行すれば、それだけで年間550時間は確保できることになります。  

また、わが国は世界の中でも土日以外の休日が多く、現在のところ、年間 15 日程度あります。もし、これらの休日にも、土日と同様に3時間確保することができれば、年間で約600時間確保できることになります。  

この600時間というのは、1日5時間の勉強を毎日、4カ月することに相当する時間です。これだけの時間があれば、何か新しいことを勉強し始めても、大学の入門レベルの授業内容をひと通りマスターするのに十分な時間であると言えます。  

実際、大学生が4年間に講義を受ける平均的時間は、1600時間程度だと言われています。これは1年に直せば、約400時間ということになります。しかも大学生の場合は、この400時間でいくつもの科目を履修しているのですから、もしあなたが一つの分野に集中して勉強するなら、1年間で大学の入門レベルをはるかに上回る水準に達することは十分可能です。 (『四○歳からの勉強法』ちくま新書)

年間500~600時間を確保

第2章のまとめ    

○まずは朝 30 分の読書から始める。    

○朝は「疲れのとれた頭」と「締め切り効果」によって読書の効率が上がる。    

○「年間600時間勉強法」で、週日の毎朝1時間と土日3時間ずつを確保する。    

○たとえ短時間でも、毎日続けて読書する。    

○朝の 30 分から始めて、それをどれだけ「まとまった時間」にできるかが勝負。    

○不規則で不安定な「スキマ時間」を過大評価してはいけない。    

○「まとまった時間」には関心のあるテーマに関する歯応えのある本を、「スキマ時間」には中断されてもかまわない軽めの読み切り型の本を読む。(「適時適書」)

良い本」を探し出す前提として、 まず自分にとって、いったい「良い本」とはどういう本なのかということを明確にしておく必要があります。 一度、以下の項目について自分なりに整理して、読書に対するイメージを明確にしておくことをおすすめします。  

・自分はどんなことに興味や関心があるのか  

・その中でこれからどんなことを勉強したいと考えているのか  

・その勉強をどの程度まで深めていきたいと考えているのか  

・読書は娯楽のためか、それとも教養、勉強、研究のためか  

・読書から学んだことをどのような形でアウトプットしたいのか

30 代末までは、文系、理系を問わず、さまざまな分野の本を読むことによって自分の知的関心領域を精一杯横に広げていく。その一方、 40 歳頃からは、それまでに読んでいった分野の中から、自分の関心、好み、性格に合致し、その後も長く勉強を続けていけると確信できるテーマを見つけ出し、それについて縦に深く探求していくのです。

自分のホームグランドではない読書は、問題意識が希薄であるために無目的な読書になりやすく、どうしても漂流しがちになります。 そうした「漂流読書」を行っているかぎり、バラバラの断片的知識量は増えるにしても、付加価値のある独自のアイデアや思考を深めたり、新たにアイデアを生み出したりすることは非常に困難です。  

その意味でも、自分がいつでも戻って来ることができるホームグラウンドを確立することが、充実した知的読書生活を送る上で何よりも重要であると言えるでしょう。

読んだ本の中で紹介されている本に注意を払う

一度、書名や著者名をメモした本は、あなたにとって何らかの意味をもった本である可能性が高いのです。 一期一会の精神を大切にして、その本のことを完全に忘れてしまわないように、必ずノートやメモの中に残していただきたいと思います。

自分の興味や関心と似ている人をできるだけ多く探し出し、その人たちと、読んだ本の情報交換を積極的にしていただきたいと思います。

でも、『ベスト&ブライテスト』(朝日文庫)、『メディアの権力』(朝日文庫)、『ザ・フィフティーズ』(新潮社)などで有名なデイヴィッド・ハルバースタムの著作は、そのどれもがジャーナリストとしての鋭い現実感覚に基づきながらも、同時に、深い歴史的洞察と小説家と見まごうばかりの叙情溢れる素晴らしい文章で書かれています。

質の悪い本である可能性が高いものとして、①ジャーナリストの書いた本、②口述筆記本、の2つをご紹介しましたが、本章の最後に、必ずしも質の悪い本ではないにしても、できれば読まないことをおすすめする本の種類をもう一つだけご紹介しておきたいと思います。  

それは、その本の文章を読んだときに、何かしっくりこない肌触りや違和感を感じたり、あるいは、自分と生理的に合わないという感じを受けた本です。

第1章の出だしの部分というのは、著者が最も力を入れて書いているところなのです。 したがって、もし、その最良の部分であるはずの出だしの書き方に違和感を覚えるようであれば、仮にその本を読み進めていったとしても、相当に高い確率でその本を読むことに苦痛を感じるようになるでしょう。

第3章のまとめ    

○読書に対するイメージを明確化しておく。    

○ 30 代までは「拡張志向」、 40 代からは「収束志向」を心がける。    

○「T字型読書法」から「フォーク型読書法」へ。(テーマを複数持つ)    

○本棚を眺めることで、自分の知的関心テーマが見えてくる。    

○読書生活における自分のホームグラウンド(知的関心テーマ)を持つ。    

○リアル書店とネット書店の特徴を知り、両者をうまく使い分ける    

○新聞や雑誌の書評を安易に信用しない。ネット書店の書評は極端な意見を省いて読む。    

○新聞朝刊第一面の「三八ツ」(書籍広告)から本を見つける。    

○「ジャーナリストの書いた本」「口述筆記本」「文章が生理的に合わない本」は読まない。

読書でも勉強でも何をするにしてもそうなのですが、学生時代とは違って、社会人になると必ず意識しなければならない課題が3つあります。それは、①時間的制約をどう克服するか、②第三者からの強制力が働かないという状況をどう克服するか、③アウトプットにどう結びつけるか、という3つの課題です。

ここでは、時間の絶対量を拡大させることによって時間的制約の問題を克服するのではなく、同じ1時間という長さの時間であっても、その時間における「効率」を上げることによって、時間的制約の問題を克服する方法について考えてみたいと思います。

その方法の一つとして、「適時適書」 と「適法適書」 という2つの考え方が重要だと考えています。 まず、「適時適書」というのは、簡単に言えば、「時間に応じて、読む本の種類を変える」ということです。

時間には大きく言って、「まとまった時間」と「スキマ時間」の2種類があります。しかし、ここで注意しなければならないことは、この両者の時間の違いは単にその長短の違いではないということです。  

今でも、この両者の時間の違いは単にその長さの違いだけであると考えている方が多いのですが、その考え方は間違っています。たしかに、両者とも「時間である」という点では同じです。しかし、その長さが違うことによって、時間の性格そのものが変わってしまうのです。そのために、読書のための時間としても、使い勝手がまったく違ったものになってしまうのです。

まず、「まとまった時間」には、自分が現在関心を持って勉強しているテーマや、一生をかけて追求していこうとするライフワークに関する本格的な読書をすることです。  

たとえば、もし、あなたがこれから経営学の勉強を本格的にしたいと考えているのでしたら、経営学の各分野の必読書と言われる、『競争の戦略』(マイケル・ポーター著、ダイヤモンド社)、『コトラーのマーケティング・マネジメント』(フィリップ・コトラー著、ピアソン・エデュケーション)、『ブランド・エクイティ戦略』(デービッド・アーカー著、ダイヤモンド社)、『野蛮な来訪者』(ブライアン・バロー、ジョン・ヘルヤー著、日本放送出版協会)、『ファイナンシャル・マネジメント』(ロバート・ヒギンズ著、ダイヤモンド社)、『組織は戦略に従う』(アルフレッド・チャンドラー Jr 著、ダイヤモンド社)、『ビジョナリー・カンパニー』(ジェームズ・コリンズ、ジェリー・ポラス著、日経BP社)などの専門書を購入し、読んでいく必要があるでしょう。  

しかし、これらの本はどれも400ページ以上ある大著であり、安易に「スキマ時間」を利用して読むとか、往復の通勤電車の中で読むなどといったことはそもそも不可能ですし、また相応しくもありません。万が一、そんなやり方で読んだとしても、よほどの天才でもないかぎり、その内容をしっかりと理解し咀嚼することはできないでしょう。

当然のことながら、「スキマ時間」にも多くの読書や勉強をすることができます。特に時間的制約が大きいビジネスマンにとっては、たとえ5分や 10 分といった短い時間であっても、それが大変貴重な時間であることに変わりはありません。その意味では、「スキマ時間」は決してバカにすることはできない時間であり、「まとまった時間」とは違った、「スキマ時間」に適した賢い使い方さえできれば、大変重要な戦力になると言えるでしょう。

一般的な言い方をすれば、「読むことをどこで中断してもよい本」ということになるだろうと思います。第2章でも多少触れましたように、単語の暗記を目的とした語学本、短編小説、雑学系の文庫本などが相応しいのではないかと思います。  

また、これらの本以外でも、1項目が見開き2ページぐらいに簡潔にまとめられた読み切り形式になっている本なども、いつでも読むことを中断できるという意味で、「スキマ時間」に読むものとして適しています。  

たとえば、英単語を覚えるのであれば、仮にその作業を突然中断されたとしても、単語は一つひとつ覚えていくものですので、特に問題はありません。あとで英単語の暗記を再開するときでも、次の単語から覚えていけばよいのですから何ら支障にはなりません。  

むしろ、英単語を覚えるといった単調な作業の効率を上げるためには、机の前に座ってダラダラと1時間も2時間も勉強するよりも、こうした「スキマ時間」のように、いつ中断されるか分からないという緊張感を伴う時間に覚えていったほうがより効果的です。

「スキマ時間」は英単語を覚えるなど語学の勉強にとても適しているのです。  

また、短編小説にしても、日本の作家では芥川龍之介や太宰治、アメリカの作家ではアーウィン・ショーやデイモン・ラニアンなどの珠玉の短編小説の数々を、外出時などの「スキマ時間」を利用してよく読みました。短編小説の一編ぐらいであれば 10 ~ 15 分もあれば十分読むことができますので、まさに短編小説は「スキマ時間」には打ってつけの読書対象です。

実際、「スキマ時間」にできることにはかぎりがあります。たしかに、英単語の勉強、短編小説や雑学本の読書においては「スキマ時間」も大変有効な時間になります。  

しかし、残念ながら、それらを読んで勉強したからといっても、一般教養や雑学が多少増えるだけであり、自分の仕事や経歴に直接役立つような専門的な知識が身につくわけではありません。そうした専門的な知識を身につけるためには、やはり「まとまった時間」を確保して、専門書や学術書などをじっくり読んでいくしか方法はありません。

お手軽・雑学系の本はどんどん読み進めていく  

まず、私が「お手軽・雑学系の本」として分類しているのは、三笠書房の知的生きかた文庫、KAWADE夢文庫、PHP文庫、だいわ文庫などを中心とした本です。  

これらの本は、原則として、自分の興味のままに気軽に読み進めていけばいいものです。

新書・文庫系の本は中身を見て読み方を変える  

次に、「新書・文庫系の本」については、前述のお手軽・雑学系の本に比べると、多少手間をかけた読み方をする必要があります。「手間をかける」という意味は、お手軽・雑学系の本のように、ただ単に読み進めていけばいいというのではなく、面白いとか興味を感じた文章や言葉には線を引き、余白に書き込みをし、ページの角を折るなど、多少腰をすえて読んでいく必要があるということです。

新書でも口述筆記もの、あるいは、対談や数人の座談会の筆記録のようなお手軽本が跋扈するようになりました。その意味では、同じ新書といっても、岩波新書、中公新書、講談社現代新書の「三大新書」が支配的であった時代の新書と現在の百家争鳴の新書とでは、質の面で相当の差があると言わざるを得ません。

一般書は「スキマ時間」に読む  

次のジャンルは「一般書」です。ただ、ここで言う一般書は非常に広い意味で使っており、ビジネス書や文芸書も含めた単行本を主としてイメージしています。  

もっとも最近は、こうした一般書についても、新書や文庫などと同様に、内容面で二極分化が激しくなっています。同じ一般書でも、ほとんど専門書と言っていいような高度な内容の本もあれば、これ以上薄められないぐらいに内容が薄くなった本もあります。

したがって、読み方もそれに応じて、内容や表現の細部にこだわることなく、また、線を引いたり余白に書き込んだりすることも最小限にとどめて、少し駆け足気味に、どんどん読んでいけばいいでしょう。また、読む時間にしても、決して「まとまった時間」に読む必要はなく、外出時などのちょっとした「スキマ時間」に読んでいってもかまいません。

専門書を読み始めたら決して途中で投げ出さない  

そして、本の種類の最後が「専門書」です。もっとも、専門書といっても、最初から単行本の専門書として出版された本以外にも、前述のような学術文庫系の本、さらには、一般書の中にも専門書に匹敵する高度な内容を持ったものもありますので、広義にはこれらすべてを含めて考えるべきでしょう。  

こうした専門書の読み方については、すでに述べてきましたように、「スキマ時間」にちょこちょこと読むのではなく、週末や休日、あるいは、朝自宅を出るまでの「まとまった時間」に、神経を集中して、できれば机らしきもの(ダイニングテーブルでも、コーヒーテーブルでも結構です)の前に座って、熟読するべきです。それだけの精神的な集中と理解力を要求するからこそ、専門書や学術書に値するのです。  

こうした専門書を読むときに心がけるべき最も大切なことは、 一度読みかけた専門書はどんなに退屈で理解しにくくても、一冊読み終わるまで、とにかく決して途中で投げ出さないということです。  

それだけに、専門書を選ぶときは、最後まで自分が読み通せるかどうかについて慎重に見極めて、購入の是非を判断する必要があります。そして、一度読み始めたら、決してそれを途中で投げ出してはいけません。というのも、 専門書を読む大きな目的の一つに、知的忍耐力を鍛えるという側面があるからです。  

こうした知的忍耐力がなければ、いつまでたっても、専門書や学術書を読みこなすことはできません。一般書と違って、専門書というのは、いくら分かりやすく書かれていたとしても限界があります。そうした分かりにくさ、難解さというものに耐えうる精神力と知力を養うことこそ、専門書を読むことの大きな意味なのです。

木原武一氏は、『孤独の研究』(PHP文庫)の中で、「ひとりきりになるということがなかったならば、人間の文化の最高に価値あるものは何ひとつとして生まれなかっただろうと言ってもまちがいではない。すべてのすぐれたもの、価値あるもの、人びとを感動させ、人びとの記憶に残るものは、孤独の産物である」と述べています。孤独には新たなものを生み出す偉大な創造力があるのです。

何度も読み返す本を持つ 「クオリティ・リーディング」のための本の読み方として、次に皆さんにおすすめしたいのは、生涯にわたって何度でも繰り返し読み返す本を持つということです。言い換えれば、 自分にとっての究極の1冊とも言うべき「ザ・ブック」を持つということです。  

もちろん、そうした究極の本「ザ・ブック」はなにも1冊である必要はありません。究極の本が5冊あっても 10 冊あっても、一向にかまいません。また、その本がどんな種類のものであってもかまいません。重要なことは、その本が人生に対する自分の考え方、生き方、価値観などに大きな影響を与えたものであるということです。

私にとっての「ザ・ブック」ならぬ「ザ・ブックス」は、今のところ6冊あります。具体的には、ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)、マルクス・アウレーリウスの『自省録』(岩波文庫)、セネカの『人生の短さについて』(岩波文庫)、デール・カーネギーの『人を動かす』(創元社)、カール・ヒルティの『幸福論』(岩波文庫)、森信三の『「修身教授録」一日一言』(致知出版社)の6冊です。  

これらの本は、充実した人生を送るにはどのように生きていけばいいのか、また、生とは何か、死とは何か、人生の真理とは何か、といった人生の諸問題について、極めて多くのことを私に教えてくれました。

イギリスの哲学者であるフランシス・ベーコンは、「ある本はその味を試み、ある本は呑み込み、少数のある本はよく噛んで消化すべきである」と言ったと伝えられていますが、まさにベーコンの言う「少数の消化すべき本」を見つけ出すことこそが「クオリティ・リーディング」の究極の目標であると言えるでしょう。

「クオリティ・リーディング」の最も重要な要素である「自分で問いを立てて読む」ことと、「批判的読書」ということについて考えてみたいと思います。  

まず、「自分で問いを立てて読む」ということですが、一般的に、私たち日本人はこうした読み方をすることが大変苦手です。というのも、私たちは長年の学校教育によって、①問いは誰かから与えられるものである、②問いには必ず正解がある、という2つの大きな思い違いをするようになったからです。  

しかし、一旦、学校や大学を出て社会に出てみると、こうした考え方がいかに間違っているかということがすぐに分かります。実際、毎日の仕事において、業績を上げるためには何が問題なのか、また、それを解決するためには何をすべきなのかということについて、あなたのまわりの人は誰も教えてくれません。すべて、自分で具体的な問いを立てて、それに基づいて具体的な解決策を自分の頭で考えていくしかないのです。  

本を読むときにも、これとまったく同じ問題が起こります。つまり、どうしても著者の書いたことをそのまま拝聴するという受け身的な姿勢が強くなりすぎるのです。  

もちろん、著者の意見をじっくり聞くという姿勢を持つことは重要です。しかしながら、ずっとそうした姿勢をとり続けているかぎりは、一方的に著者の意見を受け入れるだけで、それ以上のものをその本から得ることはできません。

しかし、読書において最も大切なことの一つは、 常に批判的精神を持って、著者の言うことに常に疑問を持ち、簡単に納得しないということです。 そして、そうした自分が抱いた疑問について、著者と対話を続けることです。  どんな主張や議論であっても、それに対して反論を行うことは可能です。どちらか一方が100%正しいということはありません。本に書かれた主張や議論もこれと同じで、著者の主張や議論は、そのほかにもあり得る多くの主張や議論の一つであるにすぎないのです。そういう意味でも、本に書いてあることを無批判に鵜呑みにするのではなく、多少意地悪なぐらいに、著者の主張と議論に疑問を持つべきです。

本を読んでいけば必ず疑問にぶつかるものです。そこで重要なことは、その疑問をそのままにして放っておかないことです。 「著者はいったいなぜこんな主張をするのだろうか」、「その裏にはどのような目的があるのだろうか」、また、「その主張は論理的で十分に説得力があり、主張の根拠は明確に提示されているのだろうか」、あるいは、「著者の主張を覆すような反論はないのだろうか」。  

以上のような疑問に対して、その本がきちんと答えてくれているのかどうかということに注意して読んでいくのです。そして、もしその本が自分の疑問に対して納得がいくような回答を与えてくれていない場合は、その疑問を疑問のままで終わらせずに、その回答を求めてほかの本を読んでいくことが大切です。  

もちろん、ほかの本をいくら読んでいったとしても、自分が抱いた疑問に対して明確な回答を与えてくれる本にすぐ出会えるわけではありません。しかし、それでも、そうした疑問を忘れずに持ち続けているかぎりは、いつかきっと、その疑問を解決してくれる本に出会うことができるはずです。   

こうした疑問は、アンテナや触覚のような働きをしてくれます。重要なことは、これらのアンテナや触覚の数自体を増やすとともに、その感度をよくすることです。  

具体的に言えば、本を読んでもすぐには納得せず、著者の主張に多くの疑問を投げかけ、そして、本の中にその回答を求めるとともに、それが見つからない場合は、ほかの本の中にそれを探す努力を続けることです。

小説、詩、俳句などの文学作品を読むときには、こうした「共感的読書」 とでも呼ぶべき読み方のほうが相応しいかもしれません。小説や詩などを読むときに重要なことは、作者や主人公の思いにできるだけ感情移入し、一心同体化することです。そうすることによって初めて、文学作品として十分堪能し鑑賞することができるのですから、まさにそうした「共感的読書」が相応しいわけです。

社会科学系の本を読むときに、著者に感情移入し、著者と一心同体化してしまっては、まさに「アバタもエクボ」で、本に書いてあることを鵜呑みにして、無批判に受け入れてしまうことになります。こうした読み方では、たとえ新しい知識は得られたとしても、その著者を乗り越え、自分で物事を考えていくための知恵を獲得することはできません。

専門家の意見を鵜呑みにして受け入れることは、第三者の意見を受け売りすることになります。それは決してあなたの意見ではなく、第三者があなたに言わせているだけなのです。  

ただ、ここで誤解のないように申し上げておきたいのは、私はなにも専門家の意見を否定しているわけではないということです。専門家というのは長年にわたって特定分野の研究を真摯に積み重ねてきたわけですから、当然のことながら、一般人に比べると、その分野については比較にならないぐらいの知識と見識を持っているはずです。

重要なことは、著者が展開する議論や主張の一つひとつを、そのメリットとデメリットに基づいて、自分自身で評価を行い、 その中で自分にとって有益で参考になるものだけを取捨選択して取り入れるという態度です。 つまり、本というのは「いいとこどり」をすればいいわけです。なにも本に書いているあることすべてを信じたり、真似したりする必要はないのです。